あてもなく

誰かへの手紙

普段家事をしているわたしが、家を離れてみて気がついたこと

GoToトラベルキャンペーンを利用して2泊3日で実家に帰ってきた話をしました。

夫と高校生の子供は自宅で留守番でした。

子供を残して泊まりで家を空けたのは、これまでに1度、1泊だけでした。

 

わたしが家をあけるということは、子供が自分で自分の身の回りのことにも気を配らなくてはならないということ。しかも、平日なので学校に行きながらです。

少々心配だったのですが、事前に相談したところ子供が「せっかく行くのだからゆっくりしてくればいい」と言ってくれたので、何事も挑戦と思い2泊の計画を実行することにしました。

 

わたしが家をあけている間は、食事は外食か買ってくるかして済ませるように話してありましたし、衣類などは自分で洗濯をしなくても大丈夫なように数を揃えておきました。

父親も家にいるわけで、理屈のうえでは何も困ることはないはずです。

でも、帰ってきてみると、子供はかなり疲れた顔をしていました。

 

母親がいない間、ずっと外食や買ったものだけで過ごすと体調が悪くなりそうで嫌だったから、少しは自分でも用意した、とのこと。

今年の前半ずっと家に居てよく手伝いをしたおかげで、子供は台所の使い方や食事の用意について知識をつけていたので、惣菜は買っても付け合わせの野菜は自分で用意したり、朝ご飯も買ってきたパンで済ませるとかではなく、自分でお味噌汁だけは用意したり。

なかなか殊勝なことです。

 

簡単な朝ご飯、とはいえ、普段なら朝子供が起きて着替えなどをしている間にわたしが朝食を作り、食べたらそのまま急いで出かけてしまえばいいところ、わたしがいなければそれらをすべて子供が一人ででやらなければいけません。

子供は普段より30分ほど早起きをして朝食作りと身支度全部やることにしたそうで。時間は多めに見積もったつもりだったのに、それでも忙しくて大変だった、とのこと。

 

また、洗濯はしなくても大丈夫なように準備していったものの、洗濯物がカゴに溜まっていくのが気になって仕方なかったそうで。

着るものに困ることはないけれど、ソレとは全く別の問題として「洗濯をしていない」という事実そのものが精神的に負担になった、というのです。

「だから、洗濯の仕方もお母さんに習っておけばよかった」

「そうすれば、自分でも片付けることができたのに」

と子供は言うのですが、子供自身、学校から帰っても宿題や勉強などしなければならないことがいっぱいあるのに、洗濯までやっていては時間が足りませんし、体力的にもキツいと思います。

つまり、やるも負担・やらぬも負担ってわけです。

とはいえ、たった2泊3日のことなので、話としては「そっかー、大変だったね。お留守番ありがとね」でいいのですがね。

 

この経験を通じてわたしが気がついたのは、「案外わたしって子供の役に立ってたんだな~」ということです。

まあ普段からいろいろ世話は焼いてたと思いますが、それが本当に子供にとって必要な事だったのかどうかはあまり考えたことがありませんでした。

別に求められてもいないけれど、わたしがやりたいからやっている、という感覚です。

たとえば、わたしがなんとなく洗濯物を溜め込まずにちゃんと洗って干してることが、そんなに子供の心の安定に役立っているとは知らなかったです。

 

こういうとき、親って「お母さんのありがたみを思い知っただろう」みたいなことをすぐ子供に言いたがる生き物のような気がする(自分の親なんかはそうでした)のですが、わたしはそうは思いません。

別に、依存されたいわけではないですし。

ただ、今回離れてみて、わたしの存在が、子供自身の漠然とした「幸福度」みたいなものの下支えの役に立っているという事実を確認できたことがうれしかったのです。

 

それは、感謝されたいということとは別のものです。

わたしは子供に日々幸せでいて欲しいと願っています。その願いが叶っていることがうれしいです。

これは、子供に対してだけでなく夫に対しても同じです。

 

家事という仕事を「感謝されたい」とか「役に立っていると思われたい」という気持ちでやり続けるのはしんどいことですよね。

「ありがとう」って言われ続けてないと安心できないとしたら、わたしも、家族もしんどいですよ。

幸せでいて欲しい人が、幸せでいるために、自分にできることを頑張る。

わたしができるのは、それだけですし、それ以上のことはどんなに望んでも意味が無い。

だから、彼らが、少なくともわたしの手の届く範囲の部分において幸せでいてくれれば、わたしは満足です。

いちいち「ありがとう」とか言ってくれる必要はない、と思います。