あてもなく

誰かへの手紙

子育てだって「人間関係」のひとつだと思う 常識にとらわれず仲良くやりたい

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「子育て」には攻略法はないと思っていて、結局「人それぞれ」に行き着く話になってしまうのであまりブログでは触れてきませんでした。

今日も別に「こうすればうまくいく」とかそういう話をするために書くわけではありません。

 

「子育て」って親にとっては家事や仕事と同じ「業務」の側面はあると思いますが、一方で家族であろうが親子であろうが育児だって結局は1対1の人間関係を築くプロセスなんじゃないかなーと思ったりします。

原則として、子供は目の前の養育者である親に頼らないと生きていけないし、親も子供が一人前になるまでは育てる義務を放棄することはできないので、人間関係といっても、職場や学校のような時間場所限定の人間関係と違って長いスパンでの付き合いを想定しなくてはいけません。ということは、嫌なら喧嘩別れできる他人同士よりよほど気を遣わなければならないと考えるべきなのに、なぜか逆に「親子なんだから」ということに甘えて普通ならあり得ない方法で関係を構築しようとしてしまうケースが多いように思います。

 

最近立て続けに「反抗期」について人と話す機会があったので少し考えていたのですが、わたしと子供の間では「反抗期」っていうのはもうないんじゃないかと思っています。そんな風に言うと「押さえつけが強すぎるのでは」とか逆に「甘やかしすぎでは」と心配されてしまうのですが、そういうのともちょっと違います。

子供が小学校高学年の頃、親子関係がとても険悪になった時期があったのですが、その時にわたしは子供に対して「言うことを聞かせたい」という気持ちを一切捨てました。「反抗期だから仕方ない」「そういうお年頃」で片付けるのではなく子供の言い分を聞いてみたり自分に置き換えて考えてみると、やっぱりわたしの方が配慮が足りなさ過ぎるのではないかと思ったからです。

それ以来、わたしが子供に対して一方的に何かをさせようとしたり押しつけたりするようなことを言わなくなったので、子供が反抗する機会もなくなったのです。

 

まだ覚えたての作業を上手にできなかった時に責めたり、教えてもなかなか覚えられない時に「やる気がない」と決めつけたり、「大人になった時に困るよ」と脅したり。親がそういう態度で子供に接していて、子供が気持ち良く親の話に耳を傾けるわけがないと思うのです。

「うまくいかない」という話を聞いたらすぐため息をついたり責めたりするような相手に、自分の不安な気持ちや悩みを素直に話せるわけがないのではないかと思います。

それではどうするかというと、不安や悩みは隠す、聞かれても適当にごまかす、首を突っ込まれそうになったら反発する。

つまりそれって「反抗期」の態度そのものですよね。その「反抗期」の原因を作っているのは親の方ではないでしょうか。そんな考えのもと、わたしは自分の態度を改めました。

 ちょうどその頃に「嫌われる勇気」という本を読んでみたのがよかったのではないかと思っています。

主に第三夜「他社の課題を切り捨てる」の章にそのあたりのことが書かれています。

「人は皆、誰かの期待を満たすために生きているわけではない」ということです。

まずは、自分が「誰かの期待を満たすため」に無理にやっている(やらされていると感じている)ことがないかどうかに気がつくことが第一歩。そして、自分が「誰かの期待を満たすための行動」から解放されるとともに、他者に対して「自分の期待を満たす行為を要求する」ことをやめる。

「他者」と突き放した言葉を使いましたが、それは子供であっても同じです。

わたしも子供も、相手の期待を満たすために存在しているわけではないということです。

まあ、そんなことが書かれている「嫌われる勇気」という本、わたしにはかなり効きました。

 

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

わたしは思うのですが、子供が脱いだ靴下をその辺に放ったらかしにしていたり、使用済みのお弁当箱を出してこない、というようなことでいちいち怒ったりするから、子供は親の言うことを聞くのが嫌になるんじゃないでしょうか。

靴下を部屋に脱ぎ散らかされているのが嫌だと感じるのはわたしだけで、子供はそんな風に思わないから脱ぎ散らかしているのだとすれば、もう少し前に戻って話をするべきではないかと思います。

「靴下が部屋のあちこちに落ちているとお母さんは嫌だから脱いだら洗濯機に入れて欲しい」

一方で、子供が「今は疲れているから、後で拾うよ」と答えたとしたら、それはそれで尊重するべきだと思います。そこで「今すぐ拾って洗濯機に入れろ!」と叱りつけるのは話し合いとしてルール違反だと思うのです。「今すぐ靴下が撤去されるべきだ」「しかも撤去するのはわたしではなく子供だ」と考えているのはわたしだけだからです。

フェアに解決するとしたら、ここは「子供が自分で拾って洗濯機に入れるまで待つ」、嫌なら「わたしが今すぐ拾って片付ける」しかないと思うのです。

そんな風に考えるようになってから、わたしは靴下を拾うのがそれほど苦痛ではなくなりました。

結果として親に靴下を拾われ続けているうちの子は、甘やかされている?大人になったら困るでしょうか?わたしはそうは思いません。

いくら何でも、母がいないところで生活を始めたら自分で靴下を拾わないといけないことぐらいわかっているはずです。それより、毎回きちんと洗濯して清潔に保たれた靴下というのは良い物だという感覚を身につけておけば十分ではないかと思います。

 

もちろん、これに賛成できない人もいると思います。

子供の靴下を拾ってやるのは甘やかしである、自分の洗濯物は自分で洗濯機に入れるべき、それを学ばせるのが親の責任だと考える人もいるでしょう。

それはそれで正解だと思います。

むしろ、そっちが社会の常識かも。

でも、そのような「正解」を求めて、その結果子供とけんかをしたり反抗的な態度を取られるのがストレスなので、そうならないように子供との関係を築くことを優先して考えています。

どちらが正しいとか間違っているとかではなくて、自分でやりやすい方を選んだら良いんじゃないかなあと思います。常識にとらわれずに。