市民活動のセミナーに行ってきました。
その中で、スティーブ・ジョブズの有名なスピーチについて触れられた箇所がありました。
「今日が人生最後の日だったら、あなたは何をしますか」
という問いについて。
といっても、セミナーの中で、実際にその問いについて考えさせられたわけではないです。
「人から上手に話を聞き出すには?」という話の中で、誰かに”あなたが本当にやりたことは何か”を尋ねるとき「たとえばこんな風に問いかければ、相手の深い考えが聞けるかもしれないですね」と、例として引用されたフレーズです。
これ、誰の言葉か知ってますか?っていう講師の先生に問いに、わたしは「ああ、アレね」って顔でバッチリ目が合ってしまったので、受講生のみんなの前で指されて答える羽目になってしまいました。
私は17歳のときに「毎日をそれが人生最後の一日だと思って生きれば、その通りになる」という言葉にどこかで出合ったのです。それは印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしているのです。「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と。「違う」という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せということです。
全文からきちんと翻訳されている部分を見ると、すこしニュアンスが違いますね。
「今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていることをするだろうか」
わたしがこの言葉を知ったのは、ジョブズが亡くなった時ですのでかれこれ10年前ってことになりました。
ネットでもしきりに拡散されていましたし、スピーチの映像をYoutubeでも見たと思います。
もうずいぶん手垢が付いてしまった問いですが、みなさんはその問いにはどうやって答えるでしょうか。
わたしも最初はすごく考えちゃったんですよね。
わたしは旅行が好きなのに、いろいろあって旅行に縁遠い生活をしてきました。
なので、死ぬまでに一度はパリに行きたいという、結構簡単に誰でも叶えられそうな夢を、未だに大事に抱えています。(ま、今はコロナ禍なので一時的に叶えるのが難しくなってますけどね)
だから、今日が最後の日だったらパリに行けばいいのかな、とか。
だけど、なんかソレってちょっと違う。
なんとなく、わたしにとって旅行っていうのは、時間がいくらでもあると思える時にするものなんですよね。(そりゃ、旅行に行けないわけだ)
明日もう死ぬとしたら、実家にいる両親の顔が浮かびます。
死ぬ前に会いたかったなあ、とは思います。
でも、今日が最後だというのに、新幹線に乗って大阪へ行くんだろうか、わたし。
やっぱりソレもなんか違う気がするのです。
親のことは大事に思ってるんですけども、最後の日にやることじゃない気がする。
1週間後って言われたら時間取るかもしんないけど。
という具合に、いろいろ考えた末に、出した答えは。
「いつもどおり、夕飯作って家族と一緒に食べる」
でした。
慌てて高級店に予約をして豪華な外食とかするのでもなく、家で普通にご飯を作って食べたいです。
これしかないなあ、と思います。
ということは、ジョブズからの問い「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」に対する、わたしからの答えはYesです。
つまり、わたしは既に満足な生き方を手に入れているということです。
そんなことを10年前にはもう思っていました。
そのときは、そのことがそんなに大事なことだとは思えていなかったのですが(当たり前っていうか)、一度迷子になってみて、改めて発見するとそれなりの重さを感じます。
毎日淡々と家族の世話をしてご飯を作って食べさせ続ける10年を経て、それでも「明日死ぬとしても、やっぱり同じ事をしたい」というのはなかなか重いです。
ということで、最近ずっと書いてますが、わたしはどうやら自分のやりたいことを生業として、生きているようです。
いろんな分岐点はあったけど、自分でそれを選んできました。
この状態は、「夢を叶えている」といっていいんだと思います。
それなのに、なんで迷子になったのか。
その理由も、ここまで書いてちょっとわかってきました。
わたしの選んだ大事な仕事は、わたしにしかできない仕事だし絶対に手放したくないものなんですけど、それだけに専念してると、ちょっと自分の能力を持て余すんです。
大体いつも、キャパの30~50%ぐらいしか使ってない感じ。
もちろん、場合によって100%解放して全力で当たらないと解決できない問題が浮上するときもありますが、平常時はちょっと物足りないんですよ。
そこを埋める為にパートやアルバイトをしてみたけれど、パートやアルバイトは、時間が減るだけで能力はちっとも使われないものであることがわかりました。能力が使えないと、結局「物足りない」「つまんない」感じって解消できない。
といって、今時、物足りなくもつまんなくもない仕事をしようとすると、家庭に取っておきたい分のキャパまで侵食されてしまう。
社会で働くっていうのは、そういうことなんですよね。
ちょうど良い能力の発散先を探したかっただけなのに、いつの間にか目的を見失って家庭か仕事かを選ぶ岐路に立たされたような気持ちになりました。
そして、実は自分が選ぶ以前に「仕事」の方に進むことはできなくなってることに気がついて、ひょっとしてもっと手前で選択を誤っていたのかもなんて絶望してみたり。
ちょっとした混乱状態ですよね。
世の中の「専業主婦」に対する風当たりみたいなのにも結構影響を受けてしまいました。
まあ、それらを全部ひっくるめて「迷子」って言いました。
そんなわけで、ほどよく自己理解が進んでたところで「働く」ということは完全に見切りを付けて、今わたしは地域の活動というところに能力の発散先を見いだそうとしていますよ。どうなることかわかりませんが、やっと「新しいことをしているな!」って感じがしています。
これで「自分探し」の話は終わりにできそうです。