あてもなく

誰かへの手紙

これからの25年を考える 隠居している場合ではない

完全にやることがなくなって、寝てしまおうと思っても寝られなかったあの日からずっと考えていました。

家族からは、もうそろそろ自由になればいいって言われました。

 

何から自由になるか。

「家族が仕事や勉強に専念するために、わたしが一切の面倒なものを引き受けなければならない」という鎖から、です。

 

子供は春から大学生です。

法的に成人とされるまでにはあと1年あるとはいえ、実質、家族全員が「大人」ということになるのです。

この家で快適に暮らすためのおおまかな仕組みというのはわたしが主婦だった20年ほどの間にできあがっており、大人3人が協力して暮らしていくのなら、そのうちのひとりの大人が持てる全てを費やして世話を焼くほどのこともないわけで。

だからこそ、最近のわたしは時々全くやることがなくなって、スマホゲームをするか寝ることで時間を潰す羽目になっているわけなのですが。

 

だったらわたし、どうすればいいんだろう。

急に自由だって言われても、困ってしまいますよね。

 

再三ブログに書いてきたことですが、主婦というのは社会的なキャリアを自分の中に築くことができない仕事です。自分の中に築けなかったキャリアは、夫や子供のキャリアを底上げするのに費やされました。

 

結婚した当初から考えると、夫はそりゃもうびっくりするぐらい立派になりました。

子供も、ずっとずっと心配だったけど、どうにか立派に成長しました。

主婦として生きてきた者は、そのことにもっと誇りを持つべきである、とわたしは言い続けてきました。

自分自身、これまでの人生には全く悔いが無く、誇りにも思っています。

 

我が家をロケットにたとえるなら、ついに大気圏を脱出して軌道に乗ろうかというところまで来たって感じ。その我が家ロケットにおいて、これまでのわたしは大気圏を脱出するまでに必要なロケットブースターのようなものでした。

本当のロケットであれば、役目を終えたロケットブースターは切り離されて海に落とされてしまいます(笑)が、わたしはヒトなので、この家から切り離すことができません。

少なくともわたしはロケットを飛ばした功労者ではありますので、軌道に乗った宇宙船の椅子にただ座って窓の外を眺めているだけでもまあOK、とは思います。

残りの人生を「余生」と考え隠居する。人生50年の時代ならば、それもアリだったのかも。

だけど、実際のわたしは、「定年70歳」と言われる時代を生きています。今日生まれた赤ん坊が、大学を卒業して働き始めるのにかかる時間よりもっと長い時間が残されていると推定されるわたしが、残りの時間全てを、ただ宇宙船の窓から外を眺めて過ごせるもんでしょうか。

いやいや。1週間でも無理!だと思います。

コロナ禍もあいまって、かれこれ1年ぐらいはその入門編のような生活をしてきましたが、やはりそろそろ限界です。

 

それに、これまで同じロケットで一緒に飛んできた家族だって、そういうのは嫌だと思うのです。

「宇宙へ大きく羽ばたいていく家族の姿を満足げに眺めながら、自分は空っぽになって海に落ちていく」という絵は、自己犠牲の象徴としてはなんだか妙に美しいところがあって、わたし自身はちょっと酔ってしまいそうにもなるのだけど、わたしを切り離して飛んでいく側の人たちがそれで気持ちが良いわけがないのです。

やっぱり、わたしはわたしでこれからも満たされて元気でいなければ、家族としての幸せは成り立たないのではないかと、思いました。

 

 

ただ一方で、自分の中に何のキャリアも積んでこなかった45歳の女が、突然「はい4月から自由ですよ」って言われても、これからどうやって自分の人生を生きていけばいいのか正直めちゃくちゃ不安です。

人の役にたつ仕事がしたい、出来ればそれがお金になるともっと嬉しい、とは思いますが、いわゆる「社会」という場所は、こんな周回遅れのわたしでも仲間に入れてくれるのでしょうか?

 

ただ、有り難いことにわたしはこの家庭を自分の母船として活動を始めることができるので、別に「放り出された」わけでもなければ、ひとりぼっちでもないんですよね。

そういう意味で、やっぱりわたしがこれまでやってきたことは、いわゆる「キャリア」ではないにしろ絶対的に自分の財産にはなってるんだよなー。うんうん。

 

まあそんなわけで、これから何ができるのか、何をするのかはわかりませんが、あまり悲観的にならずこの先25年の過ごし方を考えていきたいと思います。

さー、がんばるぞー。