あてもなく

誰かへの手紙

大きくなったら何になりたい? どんな仕事がしてみたい?

Twitterのタイムライン上で、

「学力とか向き不向きとか育った家庭環境とか一切関係なしに、なりたかった、もしくは今でもなりたい職業は?」

というような話題がちょこっと盛り上がっていました。

それでわたしも一瞬「おもしろそう!」って思って少し考えてみたのですが。

なんと、ひとつも思いつきませんでした。

 

思えばわたしは昔から、親戚その他の大人から「大きくなったら何になりたい?」などと聞かれるのが嫌いな子供でした。

 

だって、無責任じゃないですか。

もしわたしが「○○になりたい!」って言ったとしても、どんな努力をすればなれるかとか、誰に聞けばなりかたを教えてもらえるかとか、教えてくれるわけでも一緒に考えてくれるわけでもないくせに、ただ聞いて面白がるだけで。せいぜい「がんばってね」って言うだけなんて。

 

わたしは子供の頃ピアノ習ってたので、テキトーな誰かに聞かれた時に面倒がないように、テキトーに「ピアニストになりたい」って言うことに決めていた時期がありましたが、わたしがそんな風に言ったって、親を含め周りの大人は誰一人わたしをそっちのレールに導こうとはしませんでした。言ってるわたしだって無論本気ではありませんし。

まさに「だったら聞くな」「何、この会話~」って感じですよねー、ほんとに。

 

だから、わたしは大人になったけど、手持ち無沙汰だからってちびっ子たちに「大きくなったら何になりたい?」なんて絶対聞いたりしませんよ。 

 

と、まあそれはさておき。

 

職業・仕事というのは、趣味なんかとは違ってただ純粋に「好き」とか「やりたい」でやることじゃないですよね。

「ピアノを弾くのがまあまあ好き」ということと、ピアニストになることには大きな違いがあるということを、大人はみんな知っています。

漫画を読むのが好きでも、漫画家になりたいとは思わないし、美味しいものを食べるのが好きでも、料理人になりたいとは思わない、という人がほとんどでしょう。

「なりたい・なりたくない」の気持ちを想像するためには、「向き不向き」つまり適性を考えることは不可欠です。

適性っていうのはつまり、その仕事を職業にしたら自分は幸せになれるぞというイメージが沸くかどうかってことでもあります。

だから、最初の質問にあった「向き不向き一切関係なしに」というのがまず、大前提としておかしいような気がします。

向き不向きを度外視すると、そこに出てくる自分というのはもはや自分ではない別の生き物です。そんな、自分ではない何者かが、何かの職業に就くことを想像して、何が楽しいんだろう。

 

向き不向きを度外視するならできるだけお金がたくさん儲かる仕事がいいような気もするけど、儲かる儲からない(食ってける食ってけない)を度外視すればもっとやりたい仕事があるって人もいるだろうし、なかなか一筋縄ではいかんことですな。

 

あらら、なんだかめんどくさい話になってきました(笑)

 

と、いうことも踏まえつつ、それでも最大限向き不向きや生まれ育った環境を度外視して「わたしはどんな仕事に就いてれば今より良かったと思えるか?」っていうのを改めて考えてみたんですが。

わたしはやっぱりこれでいいや、という結論に達しました。

子供の頃や若かった頃の、そのときそのときを一瞬で切り取ってみれば、努力が足りなかったなあとか、もう少し粘っていればとか、後悔のようなモノが全くないわけではないですが。

わたしは未熟なりにその場その場ですごくよく考えたと思うし、その中でどうしても手放したくないものだけを手元に残し、順位の低いものを置いてきた結果がこれなので、やっぱりどうしたって今のわたしになるしかなかったと思うんですよね。

 

 

なんて、大人っぽいことをたまに言ってみました。