昨日あたりたくさんリツイートされていたツイート。
「図書館に行けばあるんだから、本を買うな」
— ほんのむし (@honnomushimush1) 2020年6月20日
と母にかなり怒られた
そういう問題じゃない!!作家さんを応援したいんだよ…本を私の所有物にしたいし…新品の本の匂いが私を誘惑してくるの!
って言いたかったけど母には理解されなそうで言えませんでした
親の理解とお金が欲しい
誰か共感してくれ
高校生さんのツイートなのね。
そっかそっか。
共感する人は、たくさんいる。
自分で稼ぐようになってから買いなねって言う人もいるし、反応は様々。
わたしも、本好きの元女子高生であり、今は高校生の母だから、なんか言いたいことはたくさんある。
高校生が本にいくらぐらい使うのが適切か、とか、作家さんを応援するとは?とか、図書館ってどうなん、とか、興味は尽きないのだけど、まずは「お母さんに怒られた」の方にフォーカスを当てて話をしたいと思います。
お母さんは、なんでそんなことぐらいでいちいち怒るんだろう
って、子供の頃思ってませんでしたか。わたしは思ってました。
わたしも子供が小学校高学年になるぐらいまではよく怒ってた気がするので、その経験を踏まえると「なんでいちいち怒るんだろう」の理由がなんとなくわかります。
お母さんが怒るのは、多分、自分の境遇に不満があるからです。
こういう言い方するとすげーケンカ売ってる風になるかもしれないけど、お母さんが子供を怒る原因って、実に「八つ当たり」的なものが多いと思うのですよ。
上記の件でもそうなんだけど、怒るようなことじゃないですよね。
本に限らず、子供が浪費していると感じて注意しなきゃいけない場面っていうのはあると思うけど、怒らなくても話しあえば済むことだと思います。
「理解されなさそうで言えませんでした」
っていうのが悲しいんだよなあ。きっと怒ってるお母さんにはいつも何言っても「うるさい黙れ」って言われちゃうんですよね。
本当に子供のことが心配で「お金使いすぎじゃない?大丈夫?図書館じゃだめなの?」っていうスタンスだったら「怒る」にはならないし、お子さんも「作家さんを応援したい」「ただ読めればいいというものではなく所有する喜びがあるんだ」という気持ちが言えると思うんですよ。
たとえその結果「あらそう、ならどんどん買っていいわよ」ってことにならなくても、それは「理解されないから言えない」という状況よりは格段にいいと思うのですが。
なのに、なんでお母さんは怒るのか。
わたし、最初にこのツイート読んだ時にまず、
「この人のお母さんは自分の好きなこととか娯楽をめちゃくちゃ我慢してるんだろうな」
って思ったんです。
経済的な制約か、時間的な制約か、それ以外のことかはわかんないけど、多くのお母さんが、子供や家庭のために自分だけの趣味に没頭したり自由にお金を使ったりすることを我慢してるもんだと思うんですよね。(わたしだってその中の一人かもしれないです)
言い方は悪いですが、そのことに対する八つ当たりで怒ってるんだと思いました。
「怒る親」が失っているもの
ネットなんか見てると、すごくいろんなところで「親に理不尽に怒られた」って話が流れてくるんだけど、大体、親の怒りの後ろには「親自身の満たされない思い」が透けて見える。
大人になると、たしかに思い通りにならないことや我慢しなきゃいけないことが増えるし、自分の中で折り合い付けてかなきゃいけないんだけど、その中で「本当は自分はどうしたいのか」っていうことを考えることを諦めてしまってる人が多いような気がする。
自分の本当の気持ちに向き合うことなく、ただ湧き上がってくる「悲しい」とか「腹立つ」とかいう感情に流されて、目の前の全然別の問題を怒りで解決した気になってるのってほんとはすごく無駄だし、それで大切なものを失っていることに気がついてないのはとてももったいないことだと思う。
ここで言う「大切なもの」っていうのは、例えば「子供からの信頼」のことですよ。
せっかくがんばって育ててるのに「親には言っても無駄、どうせわかってくれない」と思われるのってホント残念の極みじゃないですか。
それは子供のせいじゃなくて、わざわざ自分から子供の信頼を失いにいってる親のせいです。
上記の話で言えば、本当はお母さんもたくさん欲しいものがあって我慢してるのかもしれない。
例えば好きな音楽があってたまにはライブに行きたいけど、Youtubeで我慢してるのかもしれないよね。
Youtubeがあるんだからそれで見てなさいって人からいわれたら、
「そういう問題じゃない!!アーティストを応援したいんだよ…演奏を生で聴きたいし…ライブハウスの空気が私を誘惑してくるの!」
ってキレるかも。
お母さんも「本当は我慢してる」っていう自分の気持ちを把握していれば、むしろ「本が欲しい欲しい」の娘さんとは理解し合えないどころか同志であることがわかるはずです。
その上で、「本が欲しいのはわかるけど、図書館も上手に使いなさいよ」って言えれば、しつけ(?)としてはそれで十分だと思うんですよね。
つまり「子供によりよい行動を身につけてもらいたい」という目的のために「怒る」という手段を使うのは悪手すぎる。失うものが大きすぎるのです。
好きなもののためにお金を使うということ
さて、言いたかったことは大体書き終わっているんだけど、少しだけ付け加えて気になってることを書きます。
ちょっと話は違うんだけど、ウチの子の友達の話として、高校生が「推しに貢ぐ」という言い方で何冊も同じ本やBDを買い集めてるような話を聞いた時、なんだかちょっとおかしいなあって思ったんです。
上記ツイートの「作家さんを応援したい」という言葉が少しだけそのこととオーバーラップしました。
もちろん、娯楽の対価を支払うことは必要で、何もかも無料で済ませるのが良いことだとは思わないのだけど、「貢ぐ」とか「応援」という言葉には少し違和感があるのです。
お金を払うことに「娯楽の対価」以上の意味を持たせる必要はあるのでしょうか。
東日本大震災の頃からでしょうか。
「食べて応援」「買って応援」ということがテレビやネットでアピールされるようになって、人々の消費行動やお金を使うことへの意味づけってちょっと変わってきたのかなあと思います。
「美味しいから買う」「必要だから買う」だった消費者が、「応援」という自分の意志を乗せてお金を使うことを意識し始めたことで、ちょっとした権力者みたいな振る舞いを見せる瞬間が出てきました。
そのことに、わたしはなんだか下品さを感じてしまっています。
少なくとも、小遣いを貰っている高校生の立場で「金に物を言わせる」ようなお金の使い方を公言するようにはなってもらいたくないなあ、と思います。