つい忘れがちになってしまうんだけれど、人によって感じ方にはすごく差があるなと思う。
大学生数名が、3月上旬に欧州へ卒業旅行に出かけて帰った後、感染に気がつかないまま大学のゼミの卒業祝賀会やサークルの懇親会に参加してクラスター化したという話があります。
「あの時期に欧州に旅行に行くなんておかしい」と非難する声とともに、「まだあの時期なら欧州の様子は今ほど深刻化してなかったんだし、仕方ないのでは」という声もあった。
確かに、今は日々どんどん状況が変わって、現時点で一般的に「危ない」と言われている行動が、いつまでなら許容されていたのか、いつからダメになったのか、ハッキリとわからなくなりつつある。
だから、現時点の感覚で数週間~1ヶ月前の行動について後付けで非難を寄せるのは、ちょっと卑怯なんじゃないかっていう気もする。
ただ、思うのだけど。
わたし、2月28日~3月2日に予定していた実家への帰省を、2月26日に中止にしてるんですよね。
当時はどういう時期だったのかと思って調べてみたら、たとえばダイヤモンドプリンセス号から陰性の乗客を下船させるとかさせないとか言ってた頃。大阪のライブハウスで発生した集団感染がニュースになるよりも少し前のことです。
その頃には既に自分の中では、自身が感染する不安・親に感染させる不安もさることながら、
「万一何か事態が急変したときに、行ったはいいけれど突然首都封鎖とか言っちゃって新幹線も止められて、自宅に戻れなくなったりしたら大変だしな」
という気持ちでした。今、動くのは得策ではない、と。
実際には、国は3月31日現在でもそういうことをようやらんでいるわけだから、完全にわたしの読み間違いではあるのだけど、少なくともわたしの危機意識というのは当時でもそれぐらいはあったということ。
そして、わたしが実家へ帰省するのを断念した翌日の27日夜には安倍首相が「全国小中高校の全面休校要請」を発表。
それを受けて子供の高校から卒業式および関連行事の大幅縮小の知らせが届いた。
具体的には、生徒たち主催の「卒業生を送る会」が中止。卒業式への在校生参加はとりやめ。卒業式のあと卒業生と保護者と教職員が参加して行われる卒業謝恩会(ホテルでの宴会)も中止になった。
という背景があるので、わたし個人は「大学生が3月上旬から欧州への卒業旅行に出かけた」ということについて「あの頃はまだ全然大丈夫そうだったから、しょうがないよねー」とは思えない。わたしにとっては、3月はじめの時点で海外に行く行為は「強行」だと思う。
さらに言えば、3月21日にゼミの卒業祝賀会(飲食あり)が開かれて、教職員も参加してたとかほんとありえないと思う。
わたしの知人のお子さん(高校生)は3月上旬から2週間オーストラリアでホームステイするはずだったんだけど、その知人は2月1日に会ったときに「コロナの件でどうなるかわからないからキャンセルしたわ」って言ってたので、もうその時点で海外への渡航はダメだな思う人は、わたし以外にも一部にはいたわけです。
しかし、一方でまた別の知人は同じような時期に高校生のお子さんをニュージーランドへホームステイさせたが、そちらは予定通り帰国して今も元気に過ごしているという。
それって、行ったもん勝ち、なのかなあ。
非常にモヤッとするところです。
さて、モヤッとついでにもうひとつ。
ついこないだの週末、Facebookを見ていたら、古い友人が
「送別会をしてもらいました!」
という内容で飲み会の写真を投稿していた。
彼女は首都圏ではない地方都市で働く公務員だ。4月に異動になるということで、送別会を開いてもらったのだという。
いやいや、多くの場所で送別会は自粛されているのではなかったのか?
なんで普通にみんなで集まって酒飲んでるん?
ましてや、それを内々に済ませずみんなが見るFacebookに出すとはどういう感覚なのだろう……?
まあ、そんなことを本人には言わないけれど、結局、人によってめちゃくちゃ感覚が違うということなんだよね。
それでちょっと思い出したことがある。
その彼女とは大学の時の友達で、わたしと彼女を含む6人のメンバーで海外へ卒業旅行にも行くほどの仲良しグループだった。
仲良しだったのだけど、わたしと彼女とはその旅行の最中に大げんかをしたのだ。
そのけんかの原因がまさに「危機意識の違い」だったということを思い出した。
現地のナイトマーケットのような場所を観光したときのこと。そのときは自由行動の時間帯で、ガイドはおらず自分たちだけで行動していた。
わたしは海外で夜間に外にいるというだけで相当ビビりまくって、めちゃくちゃ用心しながら歩いていたのだけど、ふと振り返ると、彼女が見知らぬ現地人の男性と道ばたで談笑しているのが目に入った。
商店の人というわけでもなく、なんかフラッと近づいてきて「どこからきたの~」的に話しかけられたようなのだ。
わたしの感覚では、「海外でそんな風に声を掛けられても絶対相手にしてはいけない。ついて行ったりするのは絶対いけないし、立ち止まって話をするのも危険だ」ぐらいのレベルなのだけど、彼女を含む仲間のうちの3名は一緒になって現地人の男性との会話を楽しんでいる。
わたしと残りの2名は一刻も早くその場から離れたかったけれど、彼女らを置いて逃げるわけにもいかず少し離れた位置で事態が過ぎるのを待っていた。
結局、悪い企みを持った人ではなかったのか何なのかは知らないが、特に怖いことは起こらずわたしたちは無事に散策を終えることができた。
その後、ホテルに戻ってからわたしは彼女のその行為を「危険だ!」と責めたのだ。
そこから、3対3での大げんかに発展。
最後どうなったかって?
一応彼女ら側が「そんな怖がっているとは気がつかず申し訳ない」「怖い思いをさせてごめんね」と謝ってくれました。
とはいえ、彼女らには彼女らの楽しみ方がある、という話にもなり「危機意識というのは人それぞれだから、お互い尊重しつつ行動しましょう」ということになった。
わたしも、強い言い方で責めたことについては謝った。一応それで仲直り。
わたしは、本当は彼女らの行動を変えたいと思っていた。だって、大事な友達を危険な目に遭わせたくないし、自分も巻き込まれたくないし。だけど、それってとても難しいことだし、それは友人関係においては必ずしも「正しい」とは言えない行為だとも言える。だから、わたしも謝った。
その後旅行中にまた別の街で夜間に外へ食事に出かけようってことになったときには、わたしは一緒に行かなかった。ホテルに残って館内のレストランで食事を済ませた。
そういう「尊重」の仕方で旅程を終えたわけだ。
と、長い話になったけど、そんなわけで、やはり「危ないな」って感覚は人によって違うっていうのもそうだし、それは生まれつきの性格みたいなもんで、歳を取ったからってそうカンタンに変わる物ではないのだなあということも痛感したのだ。
彼女は危機意識が低い。だけど、だからといってこれまでに本当に危ない思いをしたことはないからその意識は変わらないままなのだ。
だから、この災禍のさなかでも平気で飲みに行って、その写真をFacebookにアップすることができるのだ。
危機意識が低くても、結果として危ない思いをしなかったのなら、危機意識が低い方が、色んな経験ができてトクなんではないかと思う。
さっきの、ホームステイ出来た子と出来なかった子の話と同じだ。
なんかモヤッとする。
ただ、そうは言ってもわたしだって、もう今更、生まれ持った危機意識の高さは変えられないと思う。
同時に、やっぱりこの感覚のおかげでわたしは結果としてここまで生き延びることができているという信念も変わらない。
ま、だから平行線だよね。
基本的には「お互い尊重し合う」という解決方法しかありえない。
ただね、今のコロナウイルスを巡る難局でもその方式でいいのだろか?
そろそろ、そういった危機意識低めの人にも行動を変えてもらう必要があるんじゃないのか?
今はちょっとそんなことを考えている。