あてもなく

誰かへの手紙

それで何もかもが解決するわけではないけれど、気分転換は多分必要

ストレスが溜まったとき、そのストレスを発散するためになにかいつもと違うことをして気分転換したりするじゃないですか。

それは、多分良いことなんだけど、ストレスの原因が解決されない限りは、本当のストレス解消にはならない。

 

今って、ずっと家から出られなくて、楽しみにしていた予定も頑張らなきゃって思ってた仕事もみんななくなって、友達にも会えなくて、いつまで待てば友達と会う約束をしてもいいのかわからない、そんなストレスが溜まる状況があるわけです。

で、少しでも楽しい気持ちになりたくて、今できる気分転換をしたりするじゃないですか。

だけど、その気分転換のひとときが終わって元の生活に戻ってみたら、ストレスは全然リセットされてなくて、またほぼ同じレベルのストレス状態から生活が再スタートするだけなんだってことに気がついて。

そのことがすごく残念だし、罪悪感もあるし、またそれがストレスになるというスパイラルに陥っている。

 

同じようなことは、以前にもあった。

子供が小さかった頃、ごくたまに夫に子供を任せて外に出かけたりして気分転換の時間を設けさせてもらったりしていた。

そのこと自体はありがたいと思っていたんだけど、だからこそ、1日の気分転換を終えて家に戻った時、ストレスのレベルが全くリセットされていないことに気がついたときの罪悪感がすごくて。

気分転換させてもらったんだから、せめて何日かはスッキリした顔してないと協力してくれた人に申し訳が立たないじゃないですか。

それなのに、帰ってきたらまたうんざりしてる自分がすごく嫌で。

そのうち、もう気分転換の時間をもらうこと自体がプレッシャーになってね。

もういいやって、時間をもらうことさえためらうようになって。

それで結局どうしたのかはあんまり覚えてないんだけど、なんやかんや騙し騙しやってるうちに子供が大きくなって、それで解決したって感じ。

 

何が言いたいかというと、要は「なんか別のことをしてストレスを発散する」という作戦って、結局「ストレスの解消」にはならないんだよなあ、って話。

 

とはいえ、じゃあ気分転換の時間を作るのって完全に無駄なことなのかっていうと、それも違うと思う。

 

気分転換の時間を持つのは、痛み止めを飲むのと同じようなもんかもしれない。

例えば身体のどこかを怪我して強い痛みがある時、病院にかかると痛み止めを処方してくれたりするけど、その薬を飲んでもその怪我が治るのが早くなったりはしない。

だけど、怪我が治るまでの期間のうち、痛み止めを使えば、その分だけ痛みを感じて過ごす時間を減らすことはできる。

 

痛み止め切れた時にまた同じぐらい痛みが戻ってきてしまったからといって、そのことに罪悪感を持つ人はいない。

「どうせ痛み止めが切れたらまた同じぐらい痛いから」と自棄になって痛み止めを飲むことを自体をやめてしまうなんてのは愚かなことだ。

 

気分転換も、それと同じようなものではないか、と。

気分転換が終わった後にまた同じレベルのストレスが戻ってきたとしてもそれは「当たり前」のことであって罪悪感を感じる必要はないし、自棄になる必要もないのだ。

 

ちょこちょこ痛み止めを飲みながら怪我が治るのを待つのと同じように、ちょこちょこ気分転換をしながら辛い時間が過ぎるのを待つ。

今の辛い時間がいつまで続くのかはちょっとわからないけれど、その全期間を辛さと向き合って生きる必要はないし、少しでも辛さを忘れて過ごせる方法があるのであれば、むしろ積極的にそういう行動を取るというのが、正しい努力の方向ではないかと思う。

 

怪我の痛みと違って、「ストレス」ってやつはメンタルに起こる症状なので、自分の弱さや未熟さが悪いのだって思ってしまいがちなんだよね。それが事を面倒にしている。

だけど、今しんどいのって、自分のせいじゃなくて、全部コロナのせいなんだよ。

自分のこと責めてるヒマがあったら、そんなことよりもっとラクすること考えようぜって。

ストレス解消は無理だから、できるだけ忘れて過ごす工夫を。

そういう方向に持って行かないと、たとえばあと1ヶ月とかこのままで耐えられないよ。