あてもなく

誰かへの手紙

インプットとアウトプット

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ブログを始める以前と比べると、自分から文章を発信するという機会が圧倒的に増えました。だからなのかわかりませんが、ここ最近、なにか「インプットが足りてない!」みたいな感じがあります。

 

ひとの頭はそれほど単純にはできていないので、文字数やページ数などの数値でインプットとアウトプットの量やバランスを可視化することはできませんが。

子供の頃から読書が好きで様々な物語に触れて育ってきたので、わたしはこれまでは圧倒的にインプットが多い人生でした。だから、今は例えば400字の文章を読んで2000字の感想を書くこともできます。

これは単純計算で1600字の赤字になり、だからといってそれがまるごと頭の中から消えてしまうわけではないけれど、一度アウトプットに使ってしまったストックには明らかに手垢が付きます。

その影響を最近実感しています。

 

つまり、自分の頭の中にどれだけ手付かずのストックがあるかということが、今後のアウトプットの質や、自分にとってのアウトプットの楽しさに結構大きな影響を与えているのではないか、という風に思うようになりました。

 

まあ、端的にいうと、わたしは最近自分の頭の中身に飽きているんですね。

 

頭の中身を増やすには、原則的には、新しい仕事を始めるとか新しい趣味を始めるとか、知らない人と友だちになるとか、旅行をしたりするなど、未知のものに触れる体験が必要です。

ただ、生身の身体で新しい実体験を得るということは楽しい反面、金銭的・時間的な制約もあるし、場合によってはストレスになるリスクもあるので、気軽に始めることはなかなか難しい。

だから、人は本を読んだり映画を見たりすることでそれらを擬似的に補おうとします。それも、頭の中のストックを増やすにはかなり有効な手段であり、楽しいものです。

 

一方で、最近のわたしはネット上の文章を読んでいる時間はけっこうあるし、テレビも見るし、簿記の勉強もしていて、何か頭に入れる機会は決して少なくないと思うのですが、これらの活動はインプットのようでいて、逆にアウトプットと同じように自分の頭のストックに手垢をつけていく作業と重なっている感じがしています。

インプットのつもりで行っていることが、最近では、これまでの人生で作り上げてきた自分なりの価値観みたいなものの「答え合わせ」になってしまっているような感覚。

これは、どういうことなんだろう。

 

頭の中に未知のストックを増やすために実体験の代わりに摂取する情報としては、ブログ記事やニュースなどの「事実」ベースのテキストでは弱いのかもしれません。

どうしても、自分がすでに持っている情報と照らし合わせて「感想」を呼び出すのが精一杯であり、結局それはインプットのつもりがアウトプットになってしまったりします。

 

「事実は小説より奇なり」なんて言いますが、例えば、あまりにも目覚ましい活躍をするスポーツ選手の功績は時に「漫画だったらボツだよね」なんて言われたりします。

それってつまり、ただの事実の伝聞というのは、物語よりは弱い=実体験の代わりにはならないということを意味しているのではないでしょうか。

 

一方、小説や映画はリアリティの上に「面白さ」という刺激を盛り付けて補強されているので、実体験の代わりに摂取することで頭の中に未知のストックを増やす効果が期待できるのではないかと思います。あくまでも、仮説ですが。

 

というわけで、最近の「インプットしているようでしていない」という欠乏感は、ノンフィクションの摂取過多と、フィクションの摂取不足から来ているのかもしれない、という結論に一応達しました。

 

休みの期間は落ち着いて小説を読んだり映画を見たりする時間は取れませんので、ゴールデンウィークが明けて落ち着いたらちょっとそのための時間を作りたいと思います。