スキマスイッチの「奏」という曲があります。
リリースは2004年ということでもう随分古い歌ですが、最近では「一週間フレンズ。」という作品のアニメや実写映画の主題歌にもなっていて、根強く愛されている名曲です。
うちの夫がこの歌好きでヘビーローテーションしてるんですが、わたしは毎回聞くたびもや~っと疑問符が浮かんで落ち着かなくなるんです。
自分でもなんでそうなるのかわからなくて気持ち悪いので、今日はそれについて考えてみたいと思います。
歌詞を直接書き写すわけにはいかないので、まずは、本文から読み取れる情報を整理します。
舞台は駅。
遠くの地で新生活を始めようとしている「君」と、それを駅まで見送りに来た「僕」という設定です。春の旅立ちですかね。今の季節にぴったりですね。
新生活を始めるのは「君」だけで、「僕」はこれまでと同じ場所で同じ生活を続けるようです。
「君」は「僕」よりだいぶ年下みたいですね。
これまで「僕」は「君」の成長を見守り支える存在でしたが、「君」は「僕」の手の届く場所から離れ、別々の道を歩むことになります。
「僕」は別れの覚悟をある程度は決めているつもりのようですが、やはり寂しく思う気持ちが強く、見送りの駅まで来た段階で、まだいろんな言葉を使って自分を納得させようとします。
「この”歌”によって僕と君はこれからもつながっていられる」
「遠くにいても”僕”は自分の歌声によって”君”を守ることができる」
さて。
わたしが不安に感じるのは、「この二人、一体どういう関係なの?」ってことなんですね。
そして、「今後はどういう関係で再出発するつもりなの?」というのもちょっと心配です。
この歌のことを調べてみると沢山の人がいろんな考察をしていてネット上でも色々意見が別れています。「君と僕」が恋人同士だという解釈が主流ですが、一部に「親子」説もあります。
おそらく「親子」説を考えついた人はわたしと同じようにちょっと二人の関係性に違和感を抱いて、余分に深読みをしてしまった同志だと思われます。
やっぱり、違和感は「僕」から「君」への圧倒的な上から目線というところから来ているような気がするんですよね。
上から目線っていっても嫌な感じのやつではなくて、きっと「君」にとっても素直にありがたい、あたたかな眼差しであっただろうとは思うんですが、だとしたらそれってやっぱり「恋人」とは違うんじゃないかという気がします。
一方で、駅まで手を繋いで来たり、いよいよ別れの瀬戸際に及んで抱きしめたりする行為は非常に「恋人」的で、その辺のギャップがわたしを不安にさせているものと思われます。
いろんな恋愛の形があるとは思いますが、圧倒的な力の差がある保護・被保護の関係のままでは、安定したパートナーシップは築けないような気がします。
もしこの歌の二人が大方の解釈の通り恋人同士であって、この先遠距離恋愛になっても関係を続けたいと思うのであれば、「僕」は早めにその保護者気分から卒業するべきでしょう。
大人になった「君」にとってはもう保護者は必要ないんですから。
…… ああ、なるほど。
そういう意味でいくと、この歌が表す切なさというのは、そんな関係性の変化にまつわる切なさが元になっているのかもしれませんね。
今までみたいに圧倒的な保護者じゃなくなっても、「君」は「僕」を慕ってくれるだろうか、なんてね。
うんうん、たしかにちょっと心配ですよね。
あくまでもひとつの解釈と感想に過ぎませんが、ちょっと考えてみてスッキリしました。