あてもなく

誰かへの手紙

不測の事態の数々を乗り越えるのに必要なのは「心の余裕」なのか?

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先日ブログの中で、わたしは家庭の中で「ハンドルの遊び」のような役割を果たしているのだ、というようなことを書きました。

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ハンドルの遊びが重要になってくる場面として、家族の病気や、学校など家族が属する社会で発生するトラブルなどという例を挙げて説明をしましたが、家庭を運営していく中で起きる不測の事態というのは、誰が見てもそれとわかるようなトラブルばかりではなく、もっと取るに足らない小さなノイズの連続かもしれません。

 

たとえば…

夜遅くになってから子供が「ノートの買い置きがない」と言い出したり。

夕飯作っちゃったあとで夫から「今日夕飯要らないわ~」と連絡が入ったり。

昨日の使用済み弁当箱が今日になってカバンから出てきたり。

 

こうして文字で書くと、なんとも取るに足りない些細なことですが、こんな小さな不測の事態ですら、積もり積もってくると「カッチーーーン!!」って頭に来たりしませんか。

さらに、自分の体調不良が重なっていたり、別の心配事で頭を痛めているときだったり。いわゆる「虫の居所が悪い」ってやつなんですけど。

いろんな事情を足し算して考えたら、今、わたしキレてもいいよね?なんて。

でも、実際に感情の赴くままブチ切れたりすると、一気に家庭の雰囲気は最悪になりますし、自己嫌悪にも陥ります。

そう、実は「キレてもいい」瞬間など存在しないのです。

 

「ハンドルの遊び」の話を書いたときは、そこから

”つまらないことでブチ切れしないで済むために、いつも心の余裕を残して暮らせたら良いですね”

ということを続けて書こうかなと思ったのでした。

感情を爆発させないで我慢するためには、心の余裕が必要なのだ、と。

 

でも、その段取りで文章を書こうとすればするほど自分の中にモヤモヤとした違和感が広がって、筆が進まなくなりました。

なんでなんだろう……?

それで少しこの文章は下書きフォルダに入れて寝かせておいたのですが、さっき唐突に思いついたのです。

 

そもそも、そんなことでいちいち腹立てるほうがおかしいよね??

 

家族というのは、自分以外の人間が更に外の社会で他の人々と関わりながら、同じ家で暮らしているひとまとまりです。

その中では、思い通りにならない出来事が次々起きてくるのなんて当たり前だし、それらを含めて家族の活動をバックアップするのがわたしの仕事だと考えればどこに腹を立てることの正当性があるでしょうか。

だから、家族にまつわる小さなゴタゴタに対して腹を立てたり立てなかったりが、「心の余裕があるかどうか」に左右されるようでは、とても責任感がある仕事のやり方とは言えないし、それが許されると思うのは完全な甘えなんじゃないか、というふうに思いました。

 

ということは、「ハンドルの遊び」は感情面での「心の余裕」についての話ではなくて、手助けに出動できる時間的・物理的な余裕という風にとらえるのが正確かもしれません。

 家族の活動をバックアップすることを自分の仕事とするのであれば、日々「何かが起きる」前提で時間を確保しておいた上で(=ハンドルの遊び)、結果として何もなかった場合には一人でも楽しく有意義に過ごせるような用意があるのが理想的です。

 

それがわたしの「ひとり時間」の存在意義なんですね。