最初にこの記事を読んだときは、なかなか良い取り組みではないか、と思ったものです。この高校、自分の家から行けなくもないし、こういった活動にボランティアとして参加するのも悪くないかも、などと具体的に興味を持ったほどです。
ちょうどその頃に家庭の都合で仕事をやめて、なんとなく、これからどうしよう……と心許なく思っていた時期でもあったので。
自分は、年の割にはあまり「こうあるべき」ということにとらわれないほうの大人だと思うので、それなりに役に立てるのではないかって気持ちもありました。
ただ、ボランティアとして参加するためには受けなければならない研修があって、近い日程の研修はうちの子の帰宅よりも自分の帰宅が遅くなるスケジュール設定になっていて。
うちの子は中学3年生なんですけど、同年代のよその子と関わる活動に参加するために自分の子を留守番させるってどうなんだって思って一旦見送ることにしました。そもそも、仕事をやめた理由のひとつは子供のために時間を作りたいということだったので、少なくとも今そんな活動に手を染めるようでは本末転倒じゃないですか。
というわけで頭の中でアイデアは完全に「ナシ」になりました。
そんな記憶も薄れかけた今日、Twitterでこんな記事がリツイートされてまわってきました。
なるほど。なるほど~ですよ、本当に。
わたし自身は、元文学少女ではあるけれど図書館の本は嫌いだったので、図書館というものにあまり思い入れがない。だから、喜ぶ人がいるなら、図書館を遊ばせとくよりたまの面白い催しに使うのもいいんじゃない?っていう感覚になってましたが、書かれているとおり、「静かな図書館こそ居場所」という人もいることは当然だと思います。
自分自身の高校時代を思い返してみると、めんどくさがりの性格ゆえに友達もそれほど多くなく、教室に学校に、色濃く「居場所」を作れるタイプではありませんでした。ただ、ゆるく流れのままにそこにいることに苦痛を感じるほどではなかったので、一人になりたくて図書館に行く、というニーズもありませんでした。
「居場所がない」という部分に共感したからこそ、図書館カフェのアイデアにちょっと光を感じたりしたんだと思うのですが、でも実際のところどうかな?わたしにとっても、その光はちょっとまぶしくて結局近寄り難い場所なのかもしれないとも思いました。
後者のブログも、図書館カフェを全否定するものではありません。ただ、「ひとりでいることはいけないこと(かわいそうなこと・さみしいこと)だ」という立ち位置からのアプローチが必ずしもすべての人を救うわけではないという、当たり前のことはちゃんと頭においておかないと、と思いました。